これは問題がありません。
「調子に乗り過ぎですよ。」と私が貴方に言えば、貴方は良い気はしません。
使って良い言葉と使わない方が良い言葉があります。
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①「・・の分野で大きく羽ばたいていける可能性がある」
「いける可能性」とライターが書いています。これはお給料を支払われているライターの文章の一部です。
しっかりして下さい。
見ていたら、会社総がかりで文章を直した方が良いと思います。
そうでなければ、新しいライターを雇わなければ、会社が倒産します。
NETで働く人達は、言葉で食べていることを忘れて、最も言葉を粗末にしています。
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大きく羽ばたくとは?
羽ばたくとは、
鳥が翼を広げて上下に動かすことです。
人が広い世界へ出て自由に活動することのたとえとしても使います。
「大きく羽ばたいていける」は、広い世界で自由に活動出来るという意味です。
「行ける」は、「行く」の可能形で、「対処することが出来る」、「上手に出来る」という意味です。
「大きく羽ばたいていける可能性」
可能性というのは、名詞で、実現出来る見込みや要素のことです。
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「行ける可能性」とありますから、出来る出来ると二重になっています。
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「・・の分野で大きく羽ばたいていける可能性がある」は、
・・の分野で大きく羽ばたく可能性があります・・・
・・の分野で大きく羽ばたくことが出来るでしょう・・・
・・の分野で大きく羽ばたけるでしょう・・・
というのが、日本語として美しいと思いませんか?・・の分野で大きく羽ばたくことが出来るでしょう・・・
・・の分野で大きく羽ばたけるでしょう・・・
言われた貴方も何だか良い気分でしょ。
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②「自分自身のプライドや理想ばかりを棚に上げ、認められないのは社会のせいとばかりに反発してしまいます。世間を恨んでしまったり反抗的に……」
③広い視野で物事を見られなくならないように注意・・・
・ ③広い視野で物事を見られなくならないように注意・・・
この文章は無料のカウンセリングサイトに書いてあった言葉です。
あまりにも酷過ぎて著作権を主張出来るような文章ではありません。
③は酷過ぎて指摘する必要がありません。
②の「棚に上げる 」という意味は、
問題にせずに放って置くという意味です。
問題にしたくないのは、「プライド」や「理想」という自分の目標や長所ではなく、自分の悪いこと、欠点です。
プライドを悪い意味で使うのなら、それはそれで言い方があります。
しかし、「プライド」というのは「人の誇り」のことです。
人は「誇り」を失うと生きることが出来ません。
人から奪ってはいけない、それが「誇り・プライド」です。
私は人の最後の砦は、「誇り」であると考えます。
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「世間を恨んだり、反抗的であること」をマイナスである、と総括しています。
この文章にこの会社の方針、在り方が見えていることに気付かないのでしょうか?
「反抗することは悪いことではないのよ」と言ってあげたら、「貴方の話を聞きたいな」と誰でも思います。
「認められないのは社会の所為である」こともあります。
多くは社会の所為です。
そして認めたり認められたりが、そうでなければならないことのように考えているとしたら、それは違っています。
認められようが、認められまいが、誇りを持って生きることが大切です。
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何事も否定から始めると上手く行かないものです。
これはカウンセリングの常識です。
貴方を理解するとは、貴方を受け容れることです。
私の前の貴方が突然貴方ではない随分立派な人であるなら、カウンセリングを必要としません。
貴方は貴方のままで、私の前に立ち、在りのままの姿を認めた上で、どうするかを考えます。
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私は、おそらく私を知っているその人達のことはこれ以上は書きません。
私がメモ帳に取ったいくつかの文章に関する連絡は行っていると思っています。
しかし、私が今書いたことは参考になるはずです。
私の記事も見ていることでしょうから、改竄されて多少のミスは毎日のことですが、いくつか読めば、人にとって何が大切なのかがきっと分かるはずです。
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文章には人が現れます。
自分を見つめ直すことが先決です。
言葉で食べて行く仕事をしているという自覚が、NETで生きている人には欠けています。
子供達は、生まれたその日から、新聞ではなく、NETを見る時代です。
学校には電子黒板が導入され、教科書も電子教科書に変わります。
生まれたその日からこんな日本語に出会う子供達が、今後日本の政治や経済を担います。
日本語が出来なければ、翻訳は出来ません。
日本語が出来ない、翻訳も出来ない人間ばかりでは、外交は成立しません。
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昼にbloachの「ni-na」と「今日、この朝」の記事を書く前に、新聞社のサイトで英語の記事を読みました。
日本語と英訳文を読み比べて、私は考えました。
こういうふうだから、日本語を英訳しにくいのだし、英語も和訳しにくいのだ・・と
難しい言葉は必要としません。
聞いて頂くために書き、読んで頂くために書くきます。
ですから、誰にでも分かり易い、美しいと感じられる日本語や英語の文章にして頂けたらなと思います。
美しいと感じられる言葉は、美しい心の中にあります。
美しい心の中の美しい言葉をNETにたくさん散りばめて下さい。
私はそのためにこうして書いています。
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「わが南京プラトーン」は、南京大虐殺の時に戦地で書かれた日記ではないと書いて来ました。
その本の中に著者は、汚らしい支那人・・その不潔さに・・と書いています。
父は、戦時中には何も書いて残していません。
戦後に戦争中にあったことを書いています。
中国の方のことを汚らしいとか、不潔だとか、支那人とか書いたことはありません。
死のことが書いてあっても、それは人を殺す人の死のことではなく、戦友や自分の死についてです。
しかし「わが南京プラトーン」の著者は、「勝利の糧は血」と書いています。
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「汚らしい支那人」と書く、言うのならまだ分かります。
言う時には、腹が立ってつい言ってしまったということもありますから。
書く時に、「汚らしい支那人」と書いてしまえば、著者の品性が問われます。
戦争中であろうがあるまいが、時代がどうであろうが、戦争に反対して脱獄した人もいれば、獄中死した人もいます。
戦争や時代を言い訳に使うことは出来ません。
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父の遺した本の中に、戦時中のことを書いた「郷土部隊秘史」があります。
Nさんは、こう書いています。
「集中砲撃は一層激しくなり、伏した身辺に集中し、前後左右に砂煙りをあげてどうにもならず、死の瞬間を今か今かと待つだけだった。三十秒、一分、まだ弾丸は当たらず、せめてこの状況を書き残そうと手帳をとり出し時刻と態勢要図を走り書きした。」
・戦争中に兵士が思うことは、自分の死のことです。
人を殺したい、支那の女を犯したい・・そんなことは考えません。
手帳に書こうとしたのは、自分がこれで死ぬのではないかと思ったからです。
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「わが南京プラトーン」は、小説家などが書いたもので、兵士が南京で戦時中に書いた日記ではありません。
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人が言葉を使えなくなっています。
人が言葉を必要としなくなり、人が人ではなくなりつつあるのでしょうか?
人が言葉を必要としながら失っているのであれば、取り戻すことは出来ます。
それぞれがただ固体として在る、それが未来の「人」であるなら、それはそれで仕方のないことです。
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21:50 2010/12/22水曜日