日曜日に休めない仏教徒が何故土曜日も日曜日も休むのでしょう?
神は、休みは一日でいいよ、と言ったのに、神の形に造られた私達はよく休むこと・・・
この次が面白いのです。
明日にします。
吉野せいさんの「洟をたらした神」
の中にある混沌さんの詩
いちばんむずかしいことで、だれにでもできること
http://naritaetukokaretaumi.blogspot.com/2010/04/blog-post_07.html
を読んで頂けましたか?
混沌さんのご家族に著作権使用量を払っていません、お会いしたら是非払わせて下さい。
宣伝させて下さいね。
あんな簡単な言葉だけで、最高の詩を造ることが出来ます。
こんな楽しい作業はありません。
私が知っている言葉は必要はありません。
5歳の子供が知っている言葉だけで書きたいと思います。
あの詩に続く吉野さんの文章が素晴らしいので少し書きます。
「」です。
「・・・おそらくその死に近づいていた頃だろう。見えない目で、唯頭のしんで書きなぐったようなその文字ならぬ文字の中に、とうてい私にはついていけなかった深い彼の孤独の意地を見た気がする。心平さんは酔って、「何もいわなかった奴、孤独な混沌は日本でもいや世界でも希少なばかだ」と大声で叫んでうなだれた。・・・」吉野せい「洟をたらした神」
・・・・・亡くなったひとりの農婦、「百姓バッパ」吉野せい。宗教的ともいえる大地への憧れを伴って、三野混沌が入植した福島県いわき市郊外の菊竹山開拓地。出会いと理想、文学への情熱や希望を一切捨て、ともに土と生きよう ----と、見いだした荒地における50年は、貧困、犠牲、懐疑、苦闘、脱力、憎悪に明け暮れる焦燥の人生であった。草野心平がいう「生まれながらの詩人であるから百姓にならなくっても詩は書いただらうが、百姓になり百姓に終始し百姓の詩を書きつづけてきたことは、彼が生まれながらの詩人であるよりも更に彼にとってはのっぴきならない宿命」、野良にあっても詩作を綴る伴侶混沌のあるがまま、土着人として詩人としての理想と、生活者として無能な伴侶のため自らの「書く意志」すら放棄せざるを得なかった現実・・・・
これは誰が書いたものかは分かりません。
ひとりの農婦、「百姓バッパ」吉野せい・・・この書き方が先ず許せません。吉野さんは、農業で生きておられました。しかし、農夫、百姓、バッバと呼ぶ人がいたとしたら、恥ずかしいことです。出会いと理想、文学への情熱や希望を一切捨て、ともに土と生きよう・・・混沌さんは文学を捨てていません。捨てていないから詩を書きました。希望を捨てた人には詩を書く事は出来ません。山村暮鳥さんは、死の間際まで懸命に生き、創作を続けました。創作は希望です。混沌さんも希望を捨てていないから、荒れ地の開拓を続け、詩を書きました。詩を書く喜び、完成した作品を見る喜びは、得難いものです。
神は天も地も創造しました。
混沌さんも、地を創造し、天を創造しました。
天というのは、単に空のことを指すのではありません。
空を見上げる時、貴方の心や私の心が何を求めるでしょう?
何一つ求めていない時、空を見上げ、貴方の心は開放されないでしょうか?
天は希望です。
希望がない人は、開拓をしませんし、詩を書きません。
同じなのです。
だから農業詩人がいます。
畑を耕すこと。
白い紙に自分の心を書き写すこと。
どちらも天地創造です
私達一人一人が神です。
「破壊は一瞬」と、私の家を壊しながら書いた政党には、こうしたことは分からないでしょう。
どんなに壊したいものがあっても、中傷の元になった記事やコメントを書き込んでいる社民党自身が、多くの「自宅破壊」と書いたNET中のコメントと記事を同じものにしてはいけません。
「破壊は一瞬」と書いた時点で、貴方の心が其の方向に向かいます。
そういうことを書いてはいけません。
無能な伴侶と混沌の事を書いています。
こういうことを書く人はいません。
NETにある文学を評するサイトは、なにひとつ理解出来ない人達によって書き込まれています。
見るに値せず、読むに値しません。
とにかく低レベルなものの考え方をします。
私達には天も地も与えられています。
どちらも希望です。
地は耕して希望を産み育みます。
天は私達の疲れを癒してくれます。
12:52 2010/04/13 火曜日