創世記天地の創造
神は言われた
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。
神は大空を天と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。
第二の日である。
神は言われた
「天の下の水は一つところに集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。
神は渇いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
神はこれを見て良しとされた。
神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
神はこれを見て良しとされた。
夕べがあり朝があった。
第三の日である。
一日目に光と闇、二日目に空、三日目は神様も大変だった、乾いた所を地上と名付け、水が集まる所を海と言うことにした。其処に草を生やし、木に果物を付けたり、食べられない実を付けたり・・・
これは物語である
じゃ、水の面を神の霊が動いていたと初めに書いてあるが、水は誰が作ったのだろう?
これは物語である
何故今こうなっているのか、誰にも分からない
だから、神にした
神は私達ひとりひとりが埋めあって、ひとつひとつの生き物や、土や水や果樹や草が地上も空も埋め合わせて造っている全きモノである
私は途切れないモノそれを神と呼ぶ
お互いに埋め合わせることの出来る私達人間は、互いに思いやりを持っていさえすれば、誰も幸福である
誰でも今日から幸福になることが出来る
今日、あなたの側にいる人の欠けた部分を思いやることが出来れば、あなたは今日を幸福に過ごす
一日が終わり、悲しみや怒りに身悶えしたとしても、「わたしは今日一日幸福でした」と思ってしまえば幸福である
これを祈りと言う
祈りは神様に向かってすることではない。
あなたが横になってそう思えば良い
これは物語である
どんな苦しみも「ま、いいか」と受け入れてしまえば、どうということの無いものばかりである。
深夜の列車内の一畳に満たないbedでも、刑務所の独房でも、そこにあなたというわたしの欠けたところを埋め合わせてくれるひとがいる
あなたはかけがえのないひとである
どんな場所で一日を過ごしても、眠る時には「今日一日幸福でした」と思えばそのうちみんな幸福になる
わたしは何でも受け入れる
神経質、感受性が強く、エネルギーの塊、自分が自分を受け入れるのに40年近くかかった
自分でこんなしんどいおんなはいないと思った
幸福の側にわたしはいらなかった
わたしはどのようなときも満ち足りていた
わたしはどのようなときも満ち足りていた
不幸の側で手を握り締めることだけは、小さな頃からできた
わたしよりあなたはましだから、わたし並みの幸福であるという思いは得られる
聖書は物語である
祈りはどこででもあなたが思うことで、あなたの心そのものである
あなたがつまらないと思えばつまらなくなり、あなたがしあわせと思えばしあわせになる
なぜなら、しあわせと思うときに、あなたのいのちである心が幸せで満たされ、こころはいのちであるそのことばで生かされ、朝を迎えることが出来る
夕べと朝が何故あるのかは誰にも分からない
科学など証明出来るナニモノデモナイ
科学はただの遊びである
科学者は遊び人である
だから科学者が集まって文部科学省はBMI人体実験をする
殺人犯がいる
わたしを繋いでゴルゴダの丘に向かわせる全国会議員企業家裁判官弁護士検事は処刑される
分からないことがある、だから生きたいと思う
神は私達が補い合う事で創造出来る
わたしが神であり、あなたが神である
全きモノを造るのは私達である