池澤夏樹は、五木寛之さんが新潮社から1974年「かもめのジョナサン」を発表した頃、雑誌で「かもめのジョナサン」を翻訳したと言っている。
彼は、何故かサン・テグジュペリ「星の王子さまを2005年に翻訳している。
2005年に翻訳したのかどうかは、不明。
出版社は、出版年月日を故意に前倒しする。
理由は、他の翻訳者や作者の盗作、盗用作品だから。
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その雑誌の名を語らない。
雑誌に発表などしていないからだ。
彼が「かもめのジョナサン」を、翻訳したのは、アメリカの雑誌だ。
英語の作品を何故英語に直すのだろう?
日本人向けの雑誌・・であれば、尚更宣伝用に誌名書く。
雑誌で「かもめのジョナサン」を翻訳した、と毎日新聞紙上で、一面を使って書くのならば、それを毎日出版社に翻訳本として出版して貰う筈である。
私はほんの数行を翻訳した。
私が翻訳すると、簡単な話になり、誰が読んでも分かり易くなると思った。
しかし、私が全部翻訳すると、又作家や学者や翻訳家が盗む。
私は、この池澤夏樹の、「既に雑誌に発表してある」という、NETと新聞を使った大キャンペーンに「かもめのジョナサン」の翻訳を当面見送る事にした。
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五木寛之さんは、御自分だけで翻訳された方がいい。
彼の文章は、どちらかと言うと、無駄のない、分かり易い文章だから、きっと正しい翻訳に行き着けると思う。
翻訳は、創作ではない。
創作されたものを、まるでもう一度創作せざるを得ないと思う程、困難な作業ではあるが、それは、決して創作ではなく、創作してはならないものである。
原書を書いた作者と、その国の人々の心を、日本語で、日本人にそのまま伝える事が出来る・・これ程嬉しい作業は他にない。
今までの学者や翻訳者を使った下訳制度的な事を止め、又、原書の著作者、出版社への連絡をきちんとすれば、既に翻訳してあるという人の名も分かり、トラブルも減る。
全ての出版社が責任を持ってそうした事を遂行すれば、作家も出版社も、著作権も安全と思える方向に向かう。
何もしなければ、そのままである。
出版社は、自らの首を絞めてはいけない。
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リチャード・バック(Richard Bach、1936年6月23日 - )
「1974年6月20日に、新潮社より五木寛之の訳(下訳はのち東大教授となる國重純二)で出版された。」と、WIKIPEDIAに太線部分が追記された。
私は、よかった、と思う。
五木寛之さんだけが辛い思いをしなければならないとしたら、それは間違った方向に進んでいる事を意味する。
おそらく、お互いに翻訳し合い、五木さんが最後に、それを文学的文章に変えて行ったのだろう。
それが、今まで当たり前に行われて来た、翻訳の手法である。
私は、翻訳というのは、私という翻訳者の影や訳した足跡を消したの?と言われる程、原作者の意を汲み、黒子(くろこ)に徹する事だと考える。
作家は、最も翻訳家として適任である。
小説の翻訳に、翻訳家も学者も要らないのだ。
きっと、五木寛之さんも、そう思っていらっしゃるのだろう。
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私は、「かもめのジョナサン」を読んだ事はない。
かもめは、何だかこわいな、と見る度に思う。
「死を予感させるような、何かがある。」
下訳の國重純二が2013年暮れに亡くなられた。
五木寛之さんには、生きていてほしい。
次から次へと文学者、作家が亡くなられる。
国家は、書く者を殺してはならない。
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21:57 2014年1月25日土曜日
Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳
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