柳田邦男は、「現代人の死は、しばしば個人の営みの範囲で終わることなく、それ自体のなかに社会的な意味がこめられている・・」と言う。
おそらく彼らは、自ら先端を行かねばならない、時代の先端にのみ、この行き詰まった状況を変えるものがあると考える。
彼らは、私達より多くの事を先に知り、先に人々に紹介する、又真っ先に紹介せねばならないと考える。
それは、経済優先志向がそうさせるのだが、実際は、彼らも人であるから、もう終わりにして、少し休もうじゃないかと言いたい。
利益追求の先端にあるのは、人を刺すだけの尖った針状のモノであるし、科学やそれに追随せざるを得ない人々の心に、深く宿るのは、焦燥感や虚無感、欲望への衝動と傾倒、現実逃避への憧憬である。
現代人の死は、社会が齎(もたら)す、自然死ではなく、事故死や自殺や、他殺といった。
しかし、それは違うと思う。
人は一人だけで、この地球に生まれ、生き、死ぬのではない。
大昔も、今も、社会が人を拘束する手段と度合いが異なるだけである。
洋二郎君は、柳田邦男が言うサイキックナミング(心理的感覚麻痺状態)に陥る事が出来なかった。
寧ろ、多くのノンフィクション作家や、小説家は、心理的に感覚が麻痺している。
累々たる書籍の屍(しかばね)が書庫や机や床を占領しているのに、其処に、今も、青い空と飛行機雲と夢を見ている。
喩え歴史が権力者によって、仕舞いに、必ず葬られるものだとしても、私は、ひとり、葬られない道を探そうと思う。
私が、詩を書き、翻訳をするまでの私であるなら、寧ろ自ら全てを葬りたかった。
それ程、退屈な人生だった。
人が選ぶ道を行けば、孤独が其処に待ち構えている。
誰も行こうとしない道を選びさえすれば、孤独は、反(かえ)って、最高の道連れだ。
同じ道を歩き、同じ山を皆で掘り返しても、もう其処には何も埋まってはいない。
権力者は、一人を殺して、何もかも葬ろうとする。
しかし、一人の死が、全てを明るみに出す。
毎日自殺、他殺と言っては、邪魔者を殺す貴方方を、一人の死者の眼とその周辺の眼は追い続ける。
貴方方は、何万の死者の血を流す眼と、生き残った者の怒りの眼差しに耐え、怯えながら生きる?
洋二郎君は、柳田邦男が「サクリファイス犠牲わが息子脳死の11日」を著した事で、私がこれを書き、私が書く事で、多くの人々がその死について考える時、
決して忘れ去られ、歴史から抹消されはしない。
私が、抹消させはしない。
洋二郎君を抹消する事は、私を消す事になる。
19:02 2014/02/14金曜日
Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳
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