以下は、石原裕次郎のケガ・病気の遍歴(Wikipedia)
これは、Wikipediaに誰が書き込んだのか?
本人か?
保険会社か?
考えられる事は、何れにせよ、保険金が支給されたであろうということ。
傷害保険金や入院手当ても想像を絶するだろうが、石原裕次郎は生きているのに、死亡保険金を石原プロモーションも石原裕次郎自身も受け取っている。
安倍晋三即ち石原裕次郎が慶應大学と組んだ死亡保険金詐欺は、決定的だ。
安倍晋三=石原裕次郎のケガ・病気の遍歴
1952年 - バスケットボール最中に左足膝に大ケガ。
1956年 - この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る(不良少年)。幼少時代から肝臓は悪かったといわれている(高校生の頃に黄疸を発症したことがある)。
1957年 - 自由が丘で無免許運転し右足打撲。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。
1961年 - 志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院)。
1964年 - ハワイでヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。
1965年 - ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
1967年 - 右手親指骨折および左足打撲で入院。
1968年 - 右足打撲で全治1か月入院。
1971年 - 心労と胸部疾患(後に急性肺炎→肺結核と判明)のため映画宣伝中に入院。
1974年 - 階段で転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折と判明)。
1978年 - 舌下潰瘍のため入院・手術。その後悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。
1979年 - 舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。
1981年4月 - 『西部警察』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアと疑われたが、その後解離性大動脈瘤と診断され(後に右耳が難聴となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、発熱が続いた。
1984年 - 肝臓癌が発覚し、倦怠感・腰痛の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。
1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断。7月に退院後はハワイで静養。
1987年4月 - ハワイから帰国直後に慶應義塾大学病院へ検査入院。
5月に一旦退院した(カテーテル治療)ものの、間もなくして再入院。しかし容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状(肝性脳症)を発する。
7月17日午後4時26分、肝細胞癌のため死去。52歳没。
22:44 2017/10/30月
Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳
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