辛淑玉は澤地久枝である。
顔も声も同一人物のものである、
澤地久枝
1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げ山口県立防府高等学校に編入した。
1947年夏に東京に移り焼野原の原宿に建てた6畳のバラックで育つ。1949年、中央公論社に入社し同社経理部で働きながら旧制都立向丘高等女学校(現・東京都立向丘高等学校)の定時制に一年通い、早稲田大学第二文学部に学ぶ・・・・・(Wipipediaより)
大工から満鉄労働者となった人物の娘が、敗戦後、県立高校に編入する筈がない。
誰もが中卒で、国が中卒を最も必要とした時代である。
東京に移って6畳のバラックにしか住めない人間が、中央公論社に入社し、経理部で働く事はない。
経理部には当時最も必要とされた商業高校出身者以外入れない。
早稲田大学第二文学部にも行ってはいない。
澤地久枝の経歴は全部大嘑である。
辛淑玉の経歴も大嘑である。
はじめに
私は「自分の人生」の主人になりたい。
誰かに怯えたり、顔色をうかがったり、媚びたりしない生き方をしたい。
世界中のすべての人が私を叩いても、私は私が好き。
私は私を愛おしいと思う。そんな生き方をしたい。
自分があるから他者を愛せるし、共に生きていける。
そんな気がしてる。
だから今日も学び続ける。
過去があって、今があって、未来がある。
あなたも、わたしも。この社会も。
・・・辛淑玉・・・
辛淑玉は、怯え、顔色を伺い、媚びる。
私は、怯えず、顔色を伺がわず、媚びない。
私は主役にはならなくてい。
私を誰もが可愛いと思うのだもの、どうしようもないわ。
だから今日も明日も只のお寝坊さん!
貴方の事も社会の事もどうでもいいの。
今は、専ら探偵暮らしなの。
23:21 2018/06/06水
Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳
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しかし3、4人を除いては、誰も大隊司令官によって直接推奨された者はいないだけでなく、隊或いは師団の隊員への攻撃をする間に自ら名を上げた、さもなければ誰もが新陸軍大隊か他の連隊に送られ、僕達は依然として叙勲されなかった。僕はたった3つの例外だけ思い起こせはする。表彰の通常の予備割り当て、僕達が引き受けた犠牲者をよぅ...
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